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中牟田 純子さん

[1939 全日本テニス選手権]

中牟田(旧姓 加茂)純子さん

03年2月11日、インタビューのため、福岡市の自宅を訪ねた。「私も3月で80歳になりますから、遠い昔のことは忘れちゃいました」と初めは控えめだったが、選手時代の話になると、はっきりした声で当時の様子を聞かせてくださった。「日本一を目指していたので、(1939年に)全日本で優勝した時はうれしかった」とにこやかに語っていた。その約1カ月半後の03年3月31日、80歳の誕生日に永眠された。

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テニス一家で知られる加茂家の長女。純子さんを始め、妹の(徳島)幸子さん=03年10月28日に77歳で死去=、弟の礼仁さん、公成さんの4人全員が全日本タイトルを持つ。ラケットを握ったのは、青山学院高等女学部に入学した12歳の時。新聞社に勤めていた父国夫さんが健康のためにテニスを始め、東京・自由ケ丘の自宅の庭にコートを造った。以来、全日本制覇を目指し、妹とともに父の特訓を受けた。

大晦日も元日も毎日のようにテニスに打ち込み、学校から帰って日が沈むまで練習に励んだ。クレーコートなので冬場は霜が降りる。「父が土を耕して、ローラーをかけて、妹と私も引っ張りました。石灰を溶かして線を引き、それから練習。私は足が遅かったんですが、走り回らないと練習にならないから、よく走りました。試験がある時は、練習後に勉強するんですが、本当にもう全身が疲れてね。ノートが二重になってよく見えませんでした。厳しかったけれど、そういう父がいたからみんな上達したのだと思います」。


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土日は近くの田園テニスクラブへ通い、デ杯選手の山岸二郎さんらに練習相手を務めてもらった。「父が山岸さんに『相手をしてほしい』と頼んだんですが、山岸さんといえば当時ナンバーワンで神様のような存在。ただもう一生懸命ボールを追いかけました」。


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その甲斐あって、1938年、15歳で全日本選手権の決勝に進んだ。だが、2年前の準優勝者で8歳上の木全豊子さん(日本生命)に6-2、3-6、2-6で逆転負け。「どの試合でもそうですが、負けた晩はね、座布団を5枚くらい重ねてその上に足をのせても寝られないくらい足が疲れてね。勝つとそうでもないんですが、負けるとどっと疲れが出る。それでも、翌日から次の試合を目指して練習練習ですよ。他のスポーツでもそうでしょう。練習しなければ勝てないですよ」。

翌年、甲子園コートで行われた全日本では、地元の岩田いつ子さん(甲子園)に1ゲームしか与えず、圧勝。念願の初優勝を手にした。「岩田さんは背の高い方でね、ネットプレーが得意でした。私はフォアが武器で、右に左にパスを抜いたのを覚えています。全日本で勝つことは日本一ということですから、それはうれしかったですよ。東京から汽車に乗って一人で甲子園に行ったんですが、口うるさい父がいなかったので伸び伸びプレーできました(笑)」。


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試合に出るため、学校を早退することも少なくなかった。だが、学校の門を出るためには、職員室で許可を取らなければならない。「先生は他の生徒の手前、『困りますね』なんて渋い顔をするんです。でもそのうち新聞に名前が出るようになると、『頑張っていらっしゃい』と応援してくれるようになりました。それから、私が学校を休むと父が友達から借りたノートを手書きでうつしてくれました。厳しかった父も、そういう協力はしてくれました」。


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その後、現日本テニス協会名誉会長の中牟田喜一郎氏と結婚し、福岡に住むことになった。「テニスに明け暮れる生活にも疲れていたし、ガミガミうるさい父ともサヨナラできる(笑)。東京を離れるのはさびしいなんてことはなく、私は大歓迎でした。主人の両親のお陰で仲良く暮らせたことを感謝しています」。

戦時中は韓国の京城(現ソウル)で生活した。月に1回足らずだったが、現地の人に手配してもらい、テニスをすることもあった。終戦後は帰国して本格的にテニスを再開。1950年には妹の幸子さんと組んで全日本のダブルスで2度目の優勝を果たし、夫の喜一郎さんとともに国体にも何度も出場した。

インタビューの冒頭、「娘の頃、東京に住んでいた私は大晦日も元日も父とテニスに明け暮れました。3つ下の妹や弟たちが強くなり、長女の私が一番弱くなりました。それも遠い思い出となり、今は家の中でテレビを見たり、ラジオを聴いたり楽しく暮らしています」と用意したメモを読み上げ、「何事も一生懸命練習しないと一流にはなれません」と強調していた。一流の人は一流の努力をしている、と教えられた。心からご冥福をお祈りしたい。


【取材日2003年2月11日】福岡市のご自宅にて
本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
中牟田 純子さん

プロフィール

中牟田(旧姓 加茂) 純子 (なかむた(かも)・じゅんこ)

  • 1923年3月31日生まれ。
  • 佐賀県唐津市出身。
  • 妹幸子さんは日本女子で初めて四大大会に出場、弟礼仁さんと公成さんはともに元デ杯選手。

主な戦績

  • 1939年 全日本単優勝。
  • 1940、50年同複優勝。

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