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九鬼 潤さん

[1980 全日本テニス選手権]

九鬼 潤さん

九鬼潤さんに取材を申し込むと、すぐに「思い出の試合をピックアップしました。少しでもお役に立てれば」とメールがきた。全仏でベスト32に入った試合や世界トップ10を破ったフィリピンやバルセロナの大会、初タイトルを前に手が震えた全日本選手権……。自宅を訪ねると、「とても一つには絞れないよ」と笑顔で迎えてくれた。底抜けに明るくてプレッシャーとは無縁に思える九鬼さんだが、「全日本の決勝とデ杯だけは魔物がいるね」と語るように、どちらも特別な緊張感があったという。

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最初に世界へのきっかけをつかんだのは高校3年のカナダ遠征。6人で選抜リーグを戦い、最終決戦で法政二高の同級生だった三浦允行さんと対戦。お互いがけいれんを起こす死闘の末、カナダ行きの切符を手にした。

「世界のスーパースターやトップジュニアのプレーを間近に見て世界が開けた。テニス協会がその機会をつくってくれた」と話す。

法政大学に進学後は、3年でインカレ4強に入ったのが最高で、全日本選手権は初戦で敗退していた。転機は「アメリカに1年くらいテニスの勉強に行ったらどうか」という松本武雄・法政監督の勧めによって訪れた。「うまくなるなら行きたい」と喜んで渡米し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)で腕を磨いた。


当時、アメリカの学生テニスは全盛で、同校にはアーサー・アッシュやアレン・フォックスらウインブルドンプレーヤーがひしめいていた。アッシュとは入れ違いだったが、ウインブルドンでベスト8の実績を持つフォックスは、選手生活に一区切りをつけ、博士号取得を目指して心理学の勉強をしていた。九鬼さんは夏の2カ月間、毎日のようにフォックスに練習試合をしてもらった。だが、どうしても最後は自分のミスで終わってしまう。とうとう1セットも奪うことができなかったという。

「当時は分からなかったけど、彼は相手の状況を見て嫌がるところをついてきた。私は自分のテニスだけやっていた。その差が出た」と話す。この経験は指導者としての原点になったという。

1年で帰国するのは惜しいと思った九鬼さんは滞在を延長。結局、アメリカ滞在は3年半に及び、そのまま半年間ヨーロッパの大会に出場して約4年間の海外生活を終えた。


71年の全仏では1回戦で元ウインブルドンチャンピオンのデント(豪)を撃破。3回戦ではアメリカのデ杯選手のラッツに2セットアップの第4セット4-1リードまで追い込んだが惜しくも逆転負け。

「アメリカのデ杯選手を追い込むなんて、日本を出る前は夢のまた夢だった。4年間の海外生活は大きい。有名選手と一緒に練習したり、お茶飲んだり、対等に付き合ってたから。名前負けなんてことはなかった。結局慣れやね」。

その後も得意のクレーコートで数々の番狂わせを演じた。フィリピンでは世界トップ3のタナーに勝ってベスト4。バルセロナではトップ10選手のバラズッティやタロッチィーを破り準優勝した。


海外では伸び伸びとプレーしていた九鬼さんだが、デ杯と全日本タイトルをかけた試合は特別なプレッシャーを感じたという。

71年のデ杯フィリピン戦では、暑さと緊張のため、なかなか寝付けなかったという。結局、シングルスで2勝し、敵地マニラで日本の勝利を決めたが、「もし自分が負けたら日本が負けるという責任感があった。普段は緊張するようなことはないんだけど特別なんだよね」と話す。


もう一つ、全日本初優勝をかけた戦いも独特の緊張感があった。24歳の時に1度準優勝していたが、全日本はプロの出場が認められない時期があり、ようやく門戸が開かれた時には30歳を過ぎていた。


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2度目のチャンスとなった79年の決勝では二連覇中の福井烈さんと対戦。チャンピオンシップポイントを取った途端、「これで初優勝だ」と頭に浮かび、守りに入ってしまった。何本かラリーがつながった後、早く決着をつけたくてドロップショットを打った。その前にパスでポイントを取っていたからパスで勝とうとしたのだ。だが、ドロップショットが甘くなった。

「彼がスライスで深いアプローチショットを打ってきたんだけど、そこでもまたびびって手が震えた。ラケットが振れなくなったからロブを上げたけど短くてスマッシュで決められた」と悔やむ。最終セットは1ゲームも奪えなかった。

「全日本はどうしても取りたいタイトル。優勝するまではものすごく緊張した」と話す。


翌年も“初タイトルの呪縛”に苦しんだ。準決勝の福井さん、決勝の神和住純さんとの試合前日は一睡もできなかったという。10年前から数えて3度目の挑戦。神和住さんの得意のネットプレーをパッシングショットで封じ、34歳で念願の初タイトルを獲得。終わってみれば6-3、6-4、6-1の圧勝だった。

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「二晩寝なくても勝てたことが自信になった。その後は『寝なくても勝てる』と思うと安心して眠れるようになった」と話す。アメリカ留学により「平凡な選手」から「世界の強豪と渡り合う選手」に変身した九鬼さん。その経験は、プレーヤーとしてだけでなく、指導者としても大きな糧になった。引退後は井上悦子さん、雉子牟田明子さん、長女まどかさんのツアーコーチとして世界を転戦。持ち前の明るさで、指導者としても新たな世界を切り開いていった。


【取材日2002年12月21日】
本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
九鬼 潤さん

プロフィール

九鬼 潤 (くき・じゅん)

  • 1945年12月生まれ
  • 三重県四日市市出身
  • 法政大卒

主な戦績

  • 80年全日本選手権単優勝。
  • 70、79、81、82年同準優勝。
  • 85年同混合優勝。
  • 71~73、75、76、78、79年デ杯代表。
  • 71年全仏単ベスト32。
  • 自己最高世界ランク78位。

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