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第29回オリンピック競技大会 (北京/2008) Beijin 2008

日本のテニスのオリンピック参加史

[更新日:2008/7/7]

テニスは日本のオリンピックの歴史に、さん然と輝く1ページを持っています。1920年(大9)、初参加の第7回アントワープ大会で、2個の銀メダルを獲得したことです。この2個のメダルは、同時に日本のオリンピック参加史上、初めてのものでした。

第7回大会には、陸上(11選手)・水泳(2選手)とともに、テニスも熊谷一弥(くまがい・いちや)と柏尾誠一郎(かしお・せいいちろう)の両選手を送りました。

熊谷は慶応義塾大学卒業後、三菱合資会社に、柏尾は東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業後に三井物産に入社し、当時、ともにニューヨークに駐在していました。また、熊谷は1919年(大8)に全米ランキング3位になったこともあり、米国テニス界において、すでに名を知られた存在でした。当時はまだ、日本テニス協会が設立されていなかったため、大日本体育協会(日本オリンピック委員会の前身。当時は同委員会と日本体育協会の2役を兼ねていた)が両選手の活躍を耳にして派遣を決め、ニューヨークに手紙を送ったようです。

熊谷、柏尾の両選手は、1920年7月11日に、客船オリンピック号でニューヨークを出航しました。17日に英国サザンプトンに着き、ロンドンで2週間ほど滞在しました。8月2日に、英ドーバーから乗船してベルギーのオステンドに着き、当地で開催された前哨戦に出場しました。シングルスは熊谷が柏尾を破り優勝。ダブルスも両選手が優勝するなど、オリンピックに向けて最高の調整ができました。9日にオステンドを発ち、アントワープに入りました。

アントワープ大会のテニスは15日に始まりました。シングルスでは、柏尾は3回戦で敗退しましたが、熊谷は実力を発揮し決勝まで進出しました。しかし、決勝は雨中の試合となり、熊谷は眼鏡が濡れて曇ったりしたこともあって、南アフリカのルイス・レイモンド(Luis Raymond)に7-5、4-6、5-7、4-6で惜敗しました。優勝をのがし、本人にとっては不本意だったでしょうが、銀メダルは立派な活躍でした。熊谷は柏尾とのダブルスでも準優勝に終わりましたが、もう1つの銀メダルを手にしました。

熊谷は、後に自署「テニス」(改造社)で、オリンピック出場の模様を、次のように書いています。

「北欧のこの時季は風むしろ寒く、かつ空は曇りがちの日さえ多い。戸外運動に雨天は大禁物である。この頃を選んでオリンピック大会を開催したベルギーの委員は、まず第1歩を過ったものであるとも言える。(中略)。試合(準決勝)終わり、更衣して帰途につく頃は、再び降雨として到り。(中略)。夕飯後、日本選手団本部を訪れ、マラソンの不成績に沈める選手を慰めて8時半、帰り最後の奮闘を期しつつ就寝。然るに今日の勝利と同胞のマラソンの不出来に喜悲交々(原文のまま)至りて神経をいっそう興奮せしめたものか、来し方、行く末を想い見て寝付かれず、強いて眠らんとすれば却って眼冴え斯くて闇への裡に11時を過ぎ、12時の時計を聞き、ついに午前3時に至って漸く仮眠した。

午前7時半起床、頭重く食事後再び寝る。11時起床し準備を整えて会場に赴く。午前中より曇った空はますます険悪となり、雨さえ時々降っている。午後2時、月桂冠を得るべき最後の試合は開始された。

(中略)。

テニスの試合の大部分が雨天であったためにコートは濡れて滑りやすく、打つ球は重量加わるために打球意の如くならず。これに要する不断の体力は平壌の数倍を要した」

この年、オリンピックに先立つ6月末、日本人としてウィンブルドンに初めて参加した清水善造が、前年度優勝者に対する挑戦権を懸けたオールカマーズ決勝まで進み、世界をあっといわせました。清水はこの時、三井物産のカルカッタ(インド)駐在員でした。柏尾はこの年の春、大日本体育協会に連絡を取り、清水(東京高等商業学校の1年先輩)がインドのベンガル選手権で5年連続優勝していることを伝え、オリンピックに派遣して頂けるよう要請したのですが、OKを得られませんでした。
 もし、清水を加えていれば、アントワープ大会では日本人同士の優勝争いが展開していたかもしれません。ちなみに翌1921年(大10)、熊谷、清水、柏尾(柏尾は実際はマネージャーを務めた)は、日本で初めてのデビスカップ代表となり、チャレンジラウンド(今のワールドグループ決勝)まで進んで、テニス王国アメリカに挑戦しています。

日本は4年後の1924年(大13)パリ大会には4人の男子選手を派遣しましたが、シングルスで原田武一が準々決勝まで進んだのが最高の成績でした。その後テニスにもプロ化の波が押し寄せ、この時限りでテニスはオリンピック競技から除外となりました。

1988年(昭63)ソウル大会から、実に64年振りに、テニスはオリンピックに復帰しました。世界のトッププロのほとんどがオリンピックに参加するようになったため、日本勢は男女ともに苦戦を続けてきました。しかし、1994年(平6)に世界ランキングのトップ10入りを果たした伊達公子を筆頭に、女子のレベルが急激にアップし、さらに男子では松岡修造が1995年(平7)にウィンブルドンシングルスで日本男子選手として62年振りにベスト8入りするなどの活躍を経て、1996年(平8)アトランタ大会においては伊達公子が女子シングルスでベスト8、杉山愛が同じ女子シングルスでベスト16の成績を残しました。

2000年(平12)シドニー大会では、女子シングルスに杉山愛、浅越しのぶが出場しましたが惜しくも1回戦で敗退しました。第4シードのついた杉山と宮城ナナのダブルスも2回戦で敗れてしまいました。また男子は岩渕聡、トーマス嶋田のペアが出場しましたが、これも1回戦敗退と残念な結果に終わりました。

熊谷 一弥

熊谷 一弥(くまがい・いちや)

生年月日1890年(明23)9月10日
没年月日1968年(昭43)8月16日
出 身 地福岡県久留米市
出 身 校慶応大卒
主な成績デビスカップ 1921年出場。
シングルス4勝2敗、ダブルス1勝2敗
4大大会 1918年全米ベスト4
全日本 1929年ダブルス優勝