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長崎 正雄さん

[1959 全日本選手権]

長崎 正雄さん

ラケットを握ったのは15歳と決して早くはなかった。だが、力強さとセンスの良さですぐに頭角を現し、全日本ジュニア準優勝、インカレ優勝、さらにはユニバーシアードのダブルスで日本ペア初の金メダルを獲得した。1961年、「奇跡の大逆転勝利」と言われたデ杯フィリピン戦では、ポイントのかかったダブルスで白星をあげ、勝利の原動力となった。華麗なテニス歴の中で、心残りは「全日本のタイトルを取っていないこと」だという。だが、1959年の全日本でフランクスを破った試合は、タイトルに劣らないほど価値のある勝利だった。

61年、デ杯東洋ゾーン 日本チーム。長崎さんは左から3番目(中央)。

61年、デ杯東洋ゾーン 日本チーム。長崎さんは左から3番目(中央)。

長崎が本気になればフランクスに勝つチャンスはある。

1959年(昭和34年)11月の全日本選手権を前に、元デ杯選手の佐藤俵太郎さんが新聞にこんな試合展望を書いた。それを読んで、「そうか。ひょっとしたらいけるかも」と自信が沸いた。

この年は米国ナンバー2のマッケーやフィリピンのデ杯選手のデイロ、ホセら外国選手6人が招待され、全日本に出場した。来日した米国の2選手を見た協会関係者は「長身から繰り出すサーブは日本選手も到底受け止められない程の威力を感じさせた。フォア、バックともドライブのかかった打球は低めによく決まってスピードも日本選手は太刀打ちできそうにない」と舌を巻いた。


11月11日、東京・田園クラブで行われた準々決勝。慶応大学4年の長崎正雄さんはマイロン・フランクス(米)と顔を合わせた。同年、ユニバーシアード・トリノ大会ダブルスで日本初の金メダルに輝いた長崎さんと、全米ダブルスで4強入りしたフランクスの対戦。田園コロシアムにはテレビカメラも設けられた。


だが、完全に相手ペースで試合が進んだ。「日本選手に比べ、大柄でスピード感がある。ボールに押され、対戦した瞬間、勝てないと思った」。

4-6、6-8で2セットを落とし、第3セットも1-2。チェンジコートの際、報道関係者から「今から中継なのに、これじゃあ終わっちゃうよ」と声を掛けられた。その一言がきっかけでエンジンがかかった。「初めて中継してもらえる試合だったのに、ここで頑張らないと中継されないかも」と奮起した。

どちらかというと「気分屋」と言われていた長崎さん。その分、のせると手が付けられない恐さがあった。2セットダウンからようやくエンジン全開となり、自らの好プレーで流れを引き寄せた。深い球でフランクスのネット進出を阻み、自分から前に出てボレーを決めた。それでも、相手はネットに出て先手を取ろうとしたが、長崎さんのパスがクロス、ストレートとラインぎりぎりに入り、触ることができなかった。6-4、6-3で2セットオールに追いつき、第5セットも5-4リード。最初のマッチポイントはミスしたが、デュースの後ボレーを決め2度目のマッチポイントを握った。最後はフランクスが放ったバックハンドのパスがサイドラインを割った。「自分のテニス人生を振り返ってフランクスを破ったことが一番の思い出。4時間近くかかってアメリカのトップ選手に逆転勝ちできたし、一番いいプレーができた」。準決勝は宮城淳さんにストレート負けしたが、大きな収穫だった。


長崎さんがラケットを握ったのはずいぶん遅い。攻玉社高校に入学する直前の春休みだった。付属中の同級生に誘われて田園クラブに入った。スコアの数え方も知らないまま2カ月足らずで大会に出場。第2シードと対戦し、1ゲームを奪っただけで完敗した。「歯が立たず落ち込んでいたんですが、田園クラブのコートキーパーに『彼は関東で2番目に強い。それに1ゲーム取ったんだからこれからもっと練習すれば強くなれるよ』と言われた。これが一つのきっかけになりました」。


デビスカップ日本チーム

デビスカップ日本チーム

田園クラブには大学や全日本で活躍するプレーヤーが大勢いた。その中でもまれ、力をつけていった。高校2年の夏には軽井沢トーナメントで優勝。3年では毎日選手権と関東ジュニアを制した。だが、優勝を確信して臨んだ全日本ジュニアは決勝で森本満選手(慶応高校)に3-6、2-6で完敗した。「絶対に勝てる、という気持ちがあったんですが、フェンスにずらりと並んだ相手の応援団に圧倒されてしまいました」。

当時、皇居内にあったパレスクラブから蒲田の自宅へ戻る途中、家の近くを流れる川の横で「これだけ練習しても負けてしまった。もうテニスはやめよう」と決心し、持っていたフタバヤのラケット2本を折った。その後、2週間くらいテニスコートに姿を見せなかった。すると、田園クラブでよく面倒を見てくれていた大学生から電話があり、「インカレや全日本、その先にはデ杯もある。まだ上に3つも試合があるのに、これからじゃないか」と告げられた。テニスを始めて3年にも満たない高校生にとっても、「デ杯」という響きは魅力があった。思い直して再びラケットを握った。


卒業後、慶応大学に進学した。先輩には、その後デ杯選手になった岡留恒健さんや石黒修さんら強豪がひしめいており、1年目は球拾いが主だった。

「早慶戦メンバーが優先的に練習するので、メンバーに入らないと練習できない。だからできるだけの努力をした」。

昼間はコートが使えないので月明かりの下、サーブの練習に取り組んだ。サービスラインが見えないので、的として置いたボール缶の音で判断した。2年の春、関東学生でシード選手に勝ったことで自信を得て、夏ごろから主力メンバーとともに昼間の練習に参加できるようになった。4年ではインカレ単複優勝。トリノで行われたユニバーシアードでは半那毅男選手と組んで金メダルに輝いた。同年秋には前述のように全日本でフランクスを破り、翌年、初めてデ杯選手に選ばれた。


1960年4月、東洋ゾーン1回戦の韓国戦は石黒さんと組んでダブルスに出場し、初勝利をあげた。だが、酷暑のマニラで行われたフィリピン戦は、勝敗のかかった試合でけいれんによる逆転負けを喫し、ほろ苦いデビューとなった。


翌年も同準決勝でフィリピンと対戦。シングルス2敗の後、勝敗のかかったダブルスに宮城さんと出場した。

「これは有名な話なんですが、試合が始まって2ゲーム目くらいで、目をつぶっても打てるようなスマッシュを空振りした。調子は最高だったんだけど、やっぱりここで負けたらいけないと思ったからプレッシャーがあった。でも、この1球で落ち着いてストレート勝ちできた」


3日目に宮城さんと石黒さんがシングルスで2勝し、日本は奇跡の逆転勝利を遂げた。テニスをやっている以上、デ杯は一番のあこがれだった。そのデ杯で輝かしい活躍ができた。心残りがあるとすれば、「全日本のタイトルが取れなかったこと」。だが、1959年の全日本でフランクスに勝った試合は最高のプレーで逆転勝ちし、タイトルに劣らない思い出として胸に刻まれている。


【取材日2003年1月21日】日本テニス協会にて
本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
長崎 正雄さん

プロフィール

長崎 正雄 (ながさき・まさお)

  • 1937年2月生まれ
  • 東京都出身。
  • 慶應義塾大卒業。

主な戦績

  • 1959年、インカレ単複優勝。
  • ユニバーシアード・トリノ大会ダブルス金メダル。
  • 1960、61年、デ杯代表。

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