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小浦 武志さん

[1967 全日本室内優勝]

伊達公子さんらトップ選手を育てた小浦武志さん。選手として、指導者として世界を見てきただけに、その言葉には重みがある。そんな小浦さんが最も思い出に残る試合にあげたのは、全日本室内のシングルス優勝だった。自分でも驚いたという快進撃を、東レパンパシフィックの会場で振り返ってもらった。

1971年 ウィンブルドン

67年の全日本室内選手権。デ杯選手を次々と倒し、気付いたら決勝のコートに立っていた。小浦さんは「プレッシャーも全然ない。勝つ時ってこんなもんやね。気持ちいいくらいスースーとプレーできて、いつの間にかチャンピオンになっていた」と振り返る。


お母様と

当時、国内では球足の遅いクレーコートが中心だった。だが、日本テニス協会は「世界のスピードに対抗するためには、球足の速いサーフェースでの大会が必要」と考え、65年に同選手権を新設した。

「板張りに近く、つるっぴかで世界でも有数の速さのコート」(小浦さん)は、サーブアンドボレーヤーの強さを引き出した。

「土のコートは複雑な駆け引きがあるけど、室内ではやることがシンプル。右打ったら左。左打ったら右。逆をつくなんてない。サーブ打ったら前に出て、オープンコートだけ狙えばいい。とにかく当たっていて、ラケットを振るとエースが決まった」。

だが、小浦さん自身も快進撃は予想外だった。大会前の1カ月間、当時のダブルスパートナー、森良一さんとハードコートで練習したが、まったく歯が立たなかったからだ。


インタビュー中の小浦さん

「森さんにはセットも奪えないし、他の選手とやっても勝てないからハードは苦手だと思っていた。ところが、試合に来たらやることがシンプルで気持ちよく打てた。森さんには『お前が一番下手だったのに、何でここに来たら勝てるんだ』と驚かれたくらい」。

あれよあれよという間に勝ち進み、決勝では渡辺康二さんと顔を合わせた。渡辺さんは既に全日本選手権のタイトルを持ち、デ杯の中心メンバーだった。ダークホースの小浦さんは「サーブさえキープしていれば終わらない」と気持ちを集中させてのぞんだ。

「今でも鮮明に記憶に残っているのは、サーブを打ったら次は何する、レシーブを打ったら次は何するって、はっきりやることが見えていたこと」。

ファーストを6-4で奪い、セカンドの11-10。タイブレークがないので相手のサーブをブレークして2ゲーム差をつけなければ終わらない。マッチポイントも昨日のことのように覚えているという。

「確か0-40で、相手がファーストサーブをフォルトした。よし一発狙っていこうと思って、セカンドサーブをフォアで回り込んでストレートにすかーんと打ったら抜けていった。康二さんはネットに出てきたけど全然触れなかった」。


1972年 ウィンブルドン

その後はダブルスでの活躍が目立ち、シングルスではこれが唯一の「全日本タイトル」になった。しかも、トップ選手を次々と破って手にしただけに、最も印象に残っているという。

もともと、小浦さんは長いラリーが求められるシングルスより、速い展開のダブルスが得意だった。「4歳の時、空襲で焼夷弾の破片が右足首を貫通し、右足が長持ちしないから」だという。今でも生々しい傷跡が残っている。


小浦フェドカップ監督

甲子園生まれの甲子園育ちで、野球少年だった小浦さんがテニスを始めたのも、この右足と関係があるという。

「中学に入って本格的に野球をやろうと思ったけどスパイクがはけなかった。それに、校内マラソンに出たら4、5キロも走れず、兄がテニスをやっていたので健康のために始めた」。

早速、自宅近くにあった甲子園クラブの会員になり、テニスコートに一歩足を踏み入れた。するとマネジャーの戸田定代さんに「あなたまだコートに入るの10年早い」と叱られた。戸田さんは28年(昭和3年)と36年(同11年)の全日本チャンピオンだった。

「どないしたらええねんと思ったけど、おばはんに怒られるからずっと板打ち。グリーンの板にぽんぽこと。打ち方も教わらないから、後ろから会員のプレーを見て、『ああやってやるんか』と見よう見まねで覚えた」。


2000年フェドカップメンバー杉山 愛選手、浅越しのぶ選手と

3カ月後。戸田さんから「あなたやってあげる」と声をかけられ、生まれて初めてラリーをした。だが、15分が限界だった。きついのは、ラリーが続いたからだった。「板打ちと全然違って目から火が出た。全日本チャンピオンだなんて知らないから、とんでもないおばはんやなと思った」。

終了後、「そんな女の子みたいなテニスやってどうするの。もっと練習しなさい」と厳しいアドバイスを受けた。だが、小浦さんのお兄さんには「見どころがある」と話していたという。


インタビュー中の小浦さん

戸田さんが見込んだとおり、小浦さんは後にデ杯選手としても活躍した。71年のデ杯豪州戦では、河盛純造さんとのペアでダブルスに出場。その前年に、全日本選手権や全日本室内など、国内の大会を総なめにした「最強ペア」だった。接戦で破れはしたが、50年ぶりに豪州に勝利するという歴史的瞬間に立ち会った。

その後の指導者としての歩みは説明するまでもないだろう。伊達公子さんを育て、フェドカップ監督として指揮をとり、日本テニス界を支え続けている。


【取材日2003年1月】 本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません

プロフィール

小浦 武志 (こうら・たけし)

  • 1942年11月生まれ
  • 兵庫県西宮市出身
  • 関西学院大卒

主な戦績

  • 63、70、71年デ杯代表
  • 67年全日本室内シングルス優勝
  • 70年全日本選手権
  • 全日本室内ダブルス優勝
  • 67年全仏シングルス2回戦

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