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河盛 純造さん

[1971 デ杯・オーストラリア戦 / 1963 全国大学テニス王座決定戦]

河盛さんは日本が50年ぶりに勝利を収めた71年のデ杯豪州戦でダブルスに出場、自身は黒星を喫したが歴史的瞬間に立ち合った。全国大学テニス王座決定戦では甲南大を初優勝に導いた。勝負を決する2つの試合が忘れられないという。中でも親友の松本鉄一さんを相手に、2日がかりの死闘を演じた慶応大との王座最終戦は最も思い深いという。河盛さんが常務取締役を務める東京・日本橋兜町の証券会社で話しを聞いた。

河盛さん、渡辺康二さん、小林功さん。一緒にテニスを始めた甲南中学の同級生3人がデ杯選手になった。良きライバル、良き先輩に恵まれたことが大きかったようだ。

河盛さんは甲南中学に入学し、同級生の渡辺さんとともにテニス部に入った。だが、1学年約120人のうち、80人もの入部希望者が殺到。ボール拾いとランニング、コート整備に明け暮れた。1週間すると新入部員は半分に減り、さらに1カ月でそのまた半分に。結局残ったのは十数人。希望者が多すぎるため、本当にやる気のある者だけが残るよう厳しい環境が用意されていた。


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首相官邸での抽選会

グリップの握り方やテニスの基本は高校3年の石黒修キャプテンに教わった。中学と高校で2面しかなく、石黒さん以下うまい順にコートに入った。ようやく順番が回ってきても初心者同士ではラリーが続かない。5、6球ラケットに球が当たったかと思うとすぐ交代だった。


だが、運が良いことに、同級生の松本さん宅にテニスコートがあった。土日は同級生みんなで彼の自宅を訪れ、朝8時ごろから日没までボールを打った。高校や大学に日本のトップ選手が大勢いたことも幸いした。ちょうど河盛さんが中学生のころ、松岡修造さんの父功さんが大学生だった。「一緒に練習することはなかったけど、プレーを見て育った」。

みるみる上達し、甲南は関西地区でも指折りの強豪校になった。だが、今度は同級生に勝たないとレギュラーになれない。練習試合も真剣だった。


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高校の途中から、医師をしていた父の転勤にともない熊本県立熊本高校に編入。大学は甲南に戻り、再び渡辺さんらと練習をすることに。だが、河盛さんはまったく練習についていけなかった。「体力が全然違った。彼らが簡単にこなしていることを自分はできない。高校時代の2年間のギャップは大きかったね」。


渡辺さんや小林さんは大学1年からレギュラー。ニューボールを使って優先的に練習する傍らで河盛さんは球拾い。そのままでは技術的にも体力的にもどんどん差が広がってしまう。河盛さんは球拾いをしながら蛙跳びをして足腰を鍛えた。さらに、足りない分は練習前にコートに出て補った。2つ上の先輩、那須善彦さんが朝7時から約1時間半、サーブを徹底的に教えてくれた。それまではスライス系だったが、特訓の成果でスピンサーブを覚えた。「幸せなことに有望視してくれたんだと思う。大学の先輩には藤井道雄さんや平野一斉さんとか、強い選手がたくさんいて、よくめんどうを見てもらいました」。


強豪揃いの甲南だったが、ライバルの関西学院や慶応に阻まれ、大学王座とは縁がなかった。河盛さんが大学4年の63年7月、初出場で初優勝のチャンスがめぐってきた。甲南大と慶応の決勝、芦屋コートで行われた第一日のダブルスで甲南が2勝1敗とリード。初優勝を期待する甲南OBが50人以上も見守る中、翌日のシングルス6試合はもつれにもつれた。「ナンバー6のシングルスが6時間半もかかった。結局フルセットで負けたんですが、僕はその後で試合に入ったから日没になった」。


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甲南はナンバー4から6の下位を落とし、慶応に逆転を許す。ナンバー3の小林さんはフルセットで勝ったが、最後の2試合は日没順延。3-4で最終日を迎えた。翌日は2-0でリードしていた渡辺さんが早々と勝利。勝負はナンバー2の河盛さんと松本さんの試合にかかった。「松本君は親友で、僕が熊本の高校に転校した後も、関西で試合があると彼の家に泊めてもらっていた。勝負のかかる試合で対戦するなんて皮肉なことでした」。


前日は6-8、7-5、6-8、1-2の大接戦。「普段練習している甲南のコートは速いんですが、松本君のサーブはすごい遅い。しかも球足の遅いアンツーカーで山なりのボールを打ってこられ対処できずミスしていた」。

 だが、翌日は緩いボールへの対策を考え、ペースを合わせず積極的に打っていった。一転、河盛さんが主導権を握り、6-2、6-1でゲームセット。その晩はOBが盛大な祝勝会を開いてくれ、優勝カップで酒を飲んで盛り上がった。


卒業後は日本生命に就職。ダブルスで強さを発揮し、68年から4年連続でデ杯代表に選ばれた。特に71年豪州戦の歴史的勝利の前年は、小浦武志さんとのペアで全日本優勝を始め無敵。海外の大会でも強豪を次々破り、「ひょっとしたら俺ら強いかも」と2人で言い合うほど自信を深めていた。

そんな中めぐってきた豪州戦。29歳の河盛さんはチーム最年長。監督は同級生の渡辺さんだった。「僕さえおさえておけば若手にもおさえがきくと思ったんでしょう。僕には厳しかった」。


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初日のシングルスで柳恵誌郎さんと坂井利郎さんが2勝を挙げ「快挙まであと1勝」に迫った。「勝てると思ってコートに入りましたよ。プレッシャーはなかったけど、ファーストはものすごい気負ってしまった」。セカンドから本来のプレーを取り戻したが、惜しくも敗退。だが、坂井さんが2日がかりで勝って50年ぶりに豪州戦勝利を決めた。


「僕たちは負けましたが、感激しましたね。チームが良かったと思います。試合に出ない選手がスピードサーブ攻略のため、サービスラインからサーブを打つなど練習台になってくれたしね」。

豪州戦勝利の後、周囲の見る目も変わったという。ヨーロッパ遠征に行くと、他の選手が「グレートデビスカッパーが来たから席を譲れ」と席をあけてくれたこともあった。


「僕は周りにすごく恵まれた。絶えずライバルがいたし、先輩たちもよくめんどうみてくれた。『テニスの河盛』というのは引退後もついてまわって仕事にも生きた」。

引退後もテニスで得た経験が、河盛さんを支えている。


本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
河盛 純造さん

プロフィール

河盛 純造 (かわもり・じゅんぞう)

  • 1941年11月生まれ
  • 兵庫県芦屋市出身
  • 甲南大卒

主な戦績

  • 68~71年デ杯代表。
  • 68、70年全日本ダブルス優勝。

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