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伊藤 英吉さん

[1933 デビスカップ]

伊藤 英吉さん

神戸・山手の自宅。伊藤英吉さんは、パソコン画面を指差しながら、デ杯へ向かう船旅の様子などが写った秘蔵写真の説明をしてくれた。「寄航先でピラミッドを見たり、ラクダに乗ったり、のんきなものでした。船の上でも、ランニングや水泳をしていたので体がなまることはなかったですね」。薄いグリップでフラット系の球を打っていた伊藤さんは、「とにかくネットに出るのが好きだった……」と70年前に思いを馳せていた。

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熊谷一弥、清水善造、原田武一、佐藤次郎、山岸二郎……これまで世界トップ10にランクされた日本の男子選手は5人いるが、すべて戦前のことだ。

1921年(大正10年)、熊谷と清水率いる日本チームは、初出場のデ杯でチャレンジラウンド進出。デ杯保持国の米国に完敗したものの、以来十数年間、ほぼ毎年のように米国ゾーンや欧州ゾーンの決勝か準決勝に進出していた。伊藤さんが活躍したのは、そんな日本男子の黄金時代である。


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父親の忠兵衛氏は伊藤忠商事や丸紅の創始者。その父の働きかけで、元世界ランク7位の原田武一さんに基本を仕込まれた。1931年の全日本で準優勝。その2年後、初めてデ杯選手に選ばれた。


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当時は海外遠征といえば船である。神戸港からマルセイユまで35日間。キャプテンの三木龍喜氏はすでに欧州滞在中だったため、佐藤次郎氏と布井良助氏とともに「伏見丸」でヨーロッパに旅立った。上海、香港と2~3日おきに寄航して給油する。その度に現地で練習を行った。港に着くと、日本人の駐在員が出迎え、テニスコートに連れて行ってくれる。夜は大使館などで歓迎会が催された。

「当時のお金で遠征費は1人1000円。今なら1000万円といったところでしょうか。国の代表でもなければ、簡単に海外に行けない時代です」。


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5月、日本チームはブダペストでハンガリーを下したのを皮切りに、ダブリンでアイルランドを、ベルリンでドイツを倒し、デ杯欧州ゾーンの準決勝にコマを進めた。パリでオーストラリアに惜敗したものの3年連続欧州ゾーン準決勝に進出。


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単複佐藤、布井の両氏が出たため、伊藤さんに出場の機会はなかったが、全仏では4回戦に進み、フランスの「四銃士」と呼ばれた第1シードのコシェと対戦した。


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ウィンブルドンでは初戦敗退したが、2年連続準決勝に進んだ佐藤次郎氏の試合が忘れられないという。相手は数週間前の全仏準決勝で完敗したクローフォード(豪)。

「私は絶対優勝できると思って見ていました。第4セットはすごい接戦で、佐藤さんに勢いがあったから」。


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結局、セットカウント1-3で負けるのだが、佐藤・布井組のダブルスは準優勝した。一行はヨーロッパからアメリカに渡り、全米に出場し、ようやく秋に帰国。半年以上の長旅を終えた。


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伊藤さんはその後も2回、ウィンブルドンに出ている。神戸商大(現神戸大)を卒業後、英ケンブリッジ大学に留学。その間、出場した。1936年はシングルス3回戦進出。アメリカ選手と組んだダブルスはベスト8に入った。

それが最後の四大大会出場となったが、観戦には何度も行っている。ニューヨーク駐在中、加茂公成さんと宮城淳さんがデ杯遠征に訪れると必ず応援に駆けつけた。


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7~8年前まではウィンブルドンの時期に合わせて英国旅行を組むことも少なくなかった。

「選手の時からウィンブルドンの雰囲気が好きで『別格』だと感じていました。試合観戦もいいですが、何より昔の友達とクラブハウスでお茶を飲むのが楽しいし、懐かしいです」。

かつてウィンブルドンで活躍した伊藤さんには、特別なクラブハウスに入る特権が与えられている。


【取材日2003年2月16日】神戸市御影のご自宅にて
本文と掲載写真は必ずしも関係あるものではありません
伊藤 英吉さん

プロフィール

伊藤 英吉(いとう・えいきち)

  • 1911年6月25日生まれ
  • 大阪市出身。

主な戦績

  • 1931年全日本選手権単準優勝。
  • 33年デ杯代表。同年全仏4回戦。全米2回戦。
  • 36年ウィンブルドン単3回戦、複ベスト8。

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