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日本テニス協会の歴史

[更新日:2010/07/14]
日本テニス協会の歴史

日本テニス協会は、1922(大11)年に任意団体として発足しました。前身は「日本庭球協会」で、1980(昭55)年に財団法人として再発足したのを機に、名称も「財団法人日本テニス協会」(英語表記はThe Japan Tennis Association、略称JTA)と改めました。

日本テニス協会の存立目的は、協会の寄付行為(株式会社の定款に相当する規約)の第3条に「この法人はわが国におけるテニス界を統轄し、代表する団体として、テニス競技の普及、振興をはかり、もって国民の心身の健全な発達に寄与することを目的とする」と明記されています。そして、次の第4条では、この目的を達成するための事業として、次の11項目が掲げられています。

  1. テニスの普及及び指導
  2. 全日本テニス選手権大会及びその他のテニス競技会の開催並びに国内で開催されるテニス競技会の後援、公認
  3. テニスに関する国際競技会を開催し、または国際競技会への代表者の選考及び派遣並びに外国からの選手等の招へい
  4. テニスに関する公認指導員及び審判員の養成並びに資格認定
  5. テニスの競技力向上
  6. テニスに関する競技規則及び競技者規定の制定並びにテニスランキングの作成
  7. 日本テニス界を代表して、財団法人日本体育協会・財団法人オリンピック委員会(略称JOC)、国際テニス連盟  (略称ITF)、アジアテニス連盟(略称ATF)及び東アジアテニス協会(略称EATA)に加盟すること
  8. 年鑑その他の刊行物の発刊
  9. テニスに関する用具及び施設の検定並びに公認
  10. テニス施設の管理運営
  11. その他、この法人の目的を達成するために必要な事業

テニスを通じて国際交流をはかり、国際舞台に雄飛するには、欧米で行われているテニス(軟式と区別するため、日本ではこれを硬式と呼んだ)をプレーする必要がある、という意見が強くなり、1913(大2)年に慶應義塾大が硬式採用に踏み切り、これをきっかけに、日本での本格的なテニスへの取り組みが始まったのです。

1920(大9)年に、三井物産カルカッタ支店にいた清水善造が単身、ウィンブルドンまで出かけて、オールカマー制の決勝(現行制度の準決勝)に進出。また、三菱合資会社ニューヨーク支店勤務の熊谷一弥が8月のアントワープ五輪で銀メダルを取り、同じく三井物産ニューヨーク支店にいた柏尾誠一郎と組んだダブルスでも銀メダルを獲得しました。これは日本五輪史上初のメダルという快挙でもありました。

その年の秋、当時、日本テニス界のパトロンというべき存在の実業家・朝吹常吉氏が夫人とともに外遊の途中、米国テニス協会(USTA)のジュリアン・マイリック会長ら幹部と懇談し、その折、強くデ杯戦への日本の参加をすすめられました。USTAの関係者は、日本人選手の活躍を知っていて、朝吹に助言したのです。

デ杯戦は国別対抗なので、国の窓口としての協会が必要です。日本には、まだ協会ができていませんでしたが、デ杯創始国でもある米国は、「書類上、役員組織さえ整えば、あとはなんとかするから」とまで、好意的に助言してくれ ました。そこで、帰国した朝吹は、学校やクラブの関係者と折衝を重ね、理事の頭数をそろえ、日本庭球協会を組織。推されて自らが会長となり、翌1921(大10)年2月、国際ローンテニス連盟(ILTF)に加盟を申請。米国の後押しで、その一員となることに成功しました(正式承認は1923=大12年3月)。

にわかづくりの日本協会はこの年、熊谷、清水、柏尾(柏尾は実質的にはマネジャー)のチームをデ杯に送り、このチームがインド、オーストラリアを撃破。チャレンジラウンド(現在のワールドグループ決勝)に進んで米国の王座に挑戦しました。

こういうドラマチックな展開の後、朝吹ら関係者は、もう一度、協会組織を練り直し、翌1922(大11)年3月11日、東京・神田の基督教青年会館で発会式を行い、正式なスタートを切りました。米国からはデ杯戦の入場料配分金等として2万が送金されてきて、これが協会の当座資金となりました。  協会が最初に取り組んだことは、全日本選手権大会の創設で、第1回大会は男子だけを対象に、協会発足の年の9月、東京帝大(現東大)コートで行われました。女子種目は第3回から加えられました。翌1923(大12)年にはランキング制度の採用を決定して、1924(大13)年1月4日付で全日本ランキング(男子シングルス20位、ダブルス10位)を発表しました。1925(大14)年には初の競技規則を制定、1927(昭2)年にはボール公認のため、ボール・テストを初めて実施しました。

昭和の年号が進むにつれて戦時色が濃くなり、1942(昭17)年には協会とその上部団体の大日本体育協会が解散を命じられ、国の統制団体である大日本体育会庭球部会に衣がえさせられました。そして、何の活動もできないまま敗戦を迎え、1945(昭20)年11月、再興総会を経て日本庭球協会が再発足しました。

1968(昭43)年には世界のテニス界はオープン化され、プロ全盛時代が到来しました。しかし、日本協会は“アマチュアスポーツの総本山”である日本体育協会(体協)に加盟していたため、そのアマ規定が足かせとなって、プロ選手をかかえ込むことができず、オープン・トーナメントを手がけたのは1972(昭47)年でした(ジャパンオープンの発足)。

折から日本は高度成長期を迎え、一方では海外プロの来日もひんぱんになったこともあって、テニスブームが起こり、クラブやコートが急速に増加しました。協会の業務も、こうした内外の動きに対応して、幅広く進めていくことが、要求されるようになりました。そのための対応のひとつが、協会を法的に認知してもらう法人化(1980=昭55年)でした。

名称も「財団法人日本テニス協会」と変わった協会は、1983(昭58)年に完成した東京都の施設・有明テニスの森公園を“ホームコート”として使用できるようになり、1991(平3)年には、東京・久我山の朝日生命スポーツセンターに協会用ナショナル・トレーニングセンター(NTC)を設置、普及と強化の両面で大きな足場を得ることになりました。しかし、10年後の2001(平13)年には、残念ながら財源難のために、NTCのコートは朝日生命に返還しました。このように2001年は低迷した景気の影響を受けて、財政難に陥ったのです。

その中、盛田正明会長、渡辺康二専務理事及びすべての協会役員、関係者は「新生日本テニス協会」、「日本サービス協会」をスローガンに、組織の改革、財源確保、国際対応に全力で取り組んでいます。特に、全日本選手権を含む大会の向上、ジャパンオープンの充実によるアジアへの貢献など、選手と観客にも期待されることを目標とした活動に着手しています。協会用NTCも、文科省が2008(平20)年1月21日に正式オープンした味の素ナショナルトレーニングセンター内に、室内テニスコートを確保したことで復活しました。同年4月には、NTCや日本のテニスの将来を支える「ワンコイン制度」もスタートしました。

また、ジュニアテニスへの支援を主な目的として、全国の協会関係者はもちろんのこと、一般のテニスファンを対象にした個人会員制度「クラブJTA」の推進を行っています。同時にIT時代を迎えて、協会活動、大会リポート、選手や一般ファンとの交流など、テニス界のアップデートな情報化を推進するため、JTAホームページを開設し、メールマガジン「テニスファン」が、テニスの普及と向上に大きな使命を果たしつつあります。