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日本テニスの歴史

[更新日:2010/07/16]
日本へのテニス伝来

横浜・山手公園内のテニスコート(現YITC)入り口に、「日本庭球発祥之地」と彫られたローラーの記念碑がある。元デビスカップ(デ杯)選手の安部民雄の書になるこの碑は、1878(明11)年、横浜外国人居留地の人々が、自分たちのためにクラブとコートをつくった史実にちなんだもので、創設から100年後の1978(昭53)年に除幕された。

ここで行われたテニスは、もちろん、日本人に直接の関係はなかった。それならば、日本人には、いつ、どのようにしてこの競技が紹介されたのか。実は、残念ながら、これがはっきりしていない。

文部省が体育教員養成のため設置した「体操伝習所」(開講1879=明12年)で、米国人教師リーランドが用具を取り寄せて指導した、というのが、これまで最も有力な“事始め”説になっているが、この説は文献資料の上では確認されていないようだ。

1886(明19)年、伝習所を吸収した東京高等師範学校(高師=現筑波大)では、リーランドの通訳を務めた同校教授・坪井道玄の指導で、テニスが取り上げられ、ローンテニス部が設けられた。ただ、当時の用具は輸入に頼り、すこぶる高価だった。このため、最初はやはり輸入物ながら、玩具用ゴムマリを使っていたが、高師は同年に設立された「三田土ゴム」に国産ゴムマリの開発を依頼した。これにより、以後の日本ではゴムマリを使った「軟式(現在のソフトテニス)」が盛んになり、本来のテニス(硬式)は、一部の限られた人々の間で続けられることになった。

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世界への進出

しかし、1913(大2)年に慶応義塾大が「軟式では国際交流ができない」として硬式採用に踏み切り、同年12月にマニラの東洋選手権に遠征した。軟式から転向間もない選手ばかりだったが、その一人、熊谷一弥は準決勝まで進み、軟式の技術が硬式にも十分、通用することを証明した。以後、全国主要校が続々、硬式採用を決め、本格的な硬式時代が始まった。

熊谷は、その後、数回にわたって渡米。米国のトップを次々に倒し、1919(大8)年には全米3位となった。翌年にはアントワープ五輪で銀メダルを獲得。柏尾誠一郎と組んだダブルスでも準優勝した。2つの“銀”は日本の五輪参加史上初のメダルだった。

一方、東京高商(一橋大の前身)出身の清水善造は、三井物産のカルカッタ駐在中、グラスコートのテニスを覚え、熊谷が五輪に出場したと同じ1920(大9)年には単身、ウィンブルドンに日本人として初参加。オールカマー決勝(前年優勝者への挑戦者を決める制度。現在の準決勝に相当)まで進んだ。

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初参加のデビスカップでチャレンジラウンド進出

こうした日本の活躍に米国から誘いがあり、日本は1921(大10)年、初めてデ杯に参加した。フィリピン、ベルギーの棄権で2勝を拾った後、インドを5-0、強豪オーストラリアを4-1で破り、米国ゾーンで優勝。王座保持国米国には0-5で敗れたものの、いきなりのチャレンジラウンド進出は世界を驚嘆させた。日本は、熊谷、清水、柏尾が代表だった。

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日本庭球協会の設立

当時、日本には、まだ全国を統括する組織がなかった。デ杯に参加するには、国を代表する窓口が必要である。そこで、1921年には形式的に協会をつくってデ杯に間に合わせた。実際に日本庭球協会(当時の名称)が発足したのは翌1922(大11)年の3月11日。初代会長は朝吹常吉だった。当初、協会財政の基礎となったのはデ杯戦入場料分担金など約2万1000ドル(当時は1ドル=2円)であり、熊谷、清水らは、その意味でも草創期のテニス界の恩人だった。

協会創立とともに、この年から全日本選手権がまず男子で始まり、初代優勝者の栄冠を獲得したのは、のち渡米し、日本にイースタングリップを紹介した福田雅之助だった。

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黄金時代を築く

熊谷、清水の快挙に次いで、デ杯戦における活躍は、1926(大15)年及び1927(昭2)年のインターゾーン決勝(米国ゾーンと欧州ゾーンの優勝国による対戦。勝者が前年のデ杯保持国に挑戦する)進出である。1926年は清水、原田武一、俵積雄、鳥羽貞三のメンバーで、メキシコ、フィリピン、キューバに勝って米国ゾーンで優勝。1927年には原田、鳥羽、清水、太田芳郎、三木龍喜のチームで、メキシコ、カナダを破って、2年連続でインターゾーン決勝に進み、両年ともに欧州ゾーンの優勝国フランスと対戦した。

特に1926年は、俵がコシェに2セットアップ、原田はラコステとコシェを破るという大健闘を見せ、当時「四銃士」と呼ばれた強豪をそろえたフランス撃破まで、あと一歩の接戦であった。

日本選手として、ひのき舞台で最もその名を刻み込んだのは佐藤次郎だった。やはり軟式出身だったが、1931(昭6)年全仏ベスト4、1932(昭7)、33(昭8)年ウィンブルドンのベスト4。この3年の間に世界の強豪をほとんど倒し、1933年には世界3位に推された。デ杯でも佐藤を軸として、日本は3年連続して欧州ゾーン準決勝にコマを進めた。しかし、佐藤は連年の長期海外遠征による心身の疲れから、1934(昭9)年4月5日、デ杯欧州ゾーンに遠征途上、マラッカ海峡で乗船から身を投げ、26歳の鮮烈な生涯を自ら閉じてしまった。

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宮城、加茂組が全米男子ダブルス制覇

この時期、まず触れなければならないことは、日本などの努力が実り「アジアテニスの発展のために」デ杯に東洋ゾーンが設けられたことだろう。創設された1955(昭30)年、日本はフィリピンを破って新ゾーンで優勝し、インターゾーンに進出した。このフィリピン戦は東京・田園コロシアムで行われたが、これは日本で開催された初のデ杯戦となった。米国で行われたインターゾーン準決勝で、日本はオーストラリアに敗れたが、宮城淳、加茂公成は1週間後の8月15日からマサチューセッツ州ボストンの全米選手権男子ダブルスに出場。6試合を勝ち抜いて、見事、優勝を飾った。大会が雨で2週間に及び、デ杯チャレンジラウンドと重なったため、米国、オーストラリアの強豪が棄権したことにも助けられたが、優勝は優勝である。4大大会で日本人のタイトルは、1934(昭9)年のウィンブルドン混合ダブルスに優勝した三木龍喜に次ぐ快挙だった。

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デ杯対オーストラリア戦、50年ぶりに快勝

東洋ゾーン創設後も日本は、インドとフィリピンに苦戦を強いられ、後には強豪オーストラリアも大きな壁として立ちはだかってきた。しかし、1971(昭46)年、東洋ゾーンAセクション決勝で、渡辺康二監督(現専務理事)は柳恵誌郎、坂井利郎、小浦猛志(現武志=前フェド杯監督)、河盛純造を率いてオーストラリアと対戦。シングルスで柳が先勝し、坂井が初日と最終日のポイントのかかった試合を快勝して、1921(大10)年以来50年ぶりに打倒オーストラリアを実現した。一方、インドとの対戦では1930(昭5)年の勝利以来、2003(平15)年まで17連敗を喫していた。

近年ではアジア各国の実力が向上。1986(昭61)年に韓国、翌年には中国、1999(平11)年はウズベキスタン、そして2002(平14)年にはタイに、日本はそれぞれ初の敗戦を喫している。しかし、1981(昭56)年NECデビスカップとなってからは、世界グループ、あるいは世界グループ・プレーオフ(入れ替え戦)で、スウェーデン、フランス、米国、スペイン、ロシアと対戦する機会も得てきた。また、2004(平16)年には大阪・靱テニスセンターでインドに74年ぶりの勝利を挙げ、6年ぶりに世界グループ・プレーオフ進出を果たした。

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オープン化の波

オープン化は日本テニス界にも複雑な影響を与えた。オープン化とともに国際テニス連盟(ITF)は、新しく誕生したプロを、従来のアマ同様、各国協会の管理下に置くことを指導した。そして、この種のプロを、独立興行団体などと契約している者と区別するために「プレーヤー」と称した。しかし、日本庭球協会は、アマスポーツの全国統括団体である日本体育協会(体協)の傘下にある。プロを統括し、プロ事業を行えば体協にとどまることはできなくなるのではないか。体協を脱退すれば、国体、アジア競技大会などには参加できない、という問題に直面した。このため、協会は1974(昭49)年2月、プレーヤーズ制度採用を決めたものの、体協の賛同を得られず、正式に実施できたのは1978(昭53)年3月からだった。

この間、1971(昭46)年12月20日、当時、日本庭球協会の選手会会長だった石黒修がプロ転向を表明(戦後のプロ第1号)、プロテニス協会を結成した。続いて、柳、渡辺功、神和住純(前デ杯監督)、九鬼潤らが次々にプロ転向。神和住は1974年には国際的プロツアーWCTの一員として、活躍ぶりを披露することになった。

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国際公式戦の舞台に仲間入り

1968(昭43)年にオープン化した国際大会は、世界を舞台にしたグランプリサーキット(男子)を誕生させ、初のマスターズ(年度末最終戦)が、1970(昭45)年に東京体育館で開催された。レーバー、ローズウォール(ともにオーストラリア)ら世界のトッププロが来日して妙技を披露し、結局、スミス(米国)がチャンピオンとなった。この大会をきっかけに、国内で従来の大会の国際化、さらには公式戦開催を実現して、日本は国際テニス界の主要な舞台として、一挙に脚光を浴びることとなった。

国際公式承認大会は、1973(昭48)年の大阪オープン、続いてジャパンオープンがアジアパシフィックサーキットの一角として開催され、1978(昭53)年には、男子サテライトサーキット、チャレンジャー大会、スーパージュニアなど、若手選手の育成強化に貢献する大会が次々と新設された。世界のトップスターが出場するセイコー・ワールドスーパーテニスも同年に誕生。同様に、世界のトップが参加する東レ・パンパシフィック、ブリヂストンダブルスなども加わり、80年代からはNECフェデレーションカップ(現フェドカップ)、ワールドジュニアテニスなど、世界の代表が参加するITFの国別対抗戦を多年にわたって国内で開催した。また、NECデ杯戦の各都市での開催など、地域協会の協力で、全国へのテニスの普及にも、これら公式行事が大きく貢献するとともに、国際テニス界で欠かせないテニス大国に発展してきた。

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協会の財団法人化

国際テニス界の変革に沿って、すべての活動において統括する立場になった日本庭球協会は、1980(昭55)年に「財団法人日本テニス協会」として再出発し、1983(昭58)年の東京都の有明テニスの森公園完成で、同所が田園コロシアムに代わる新しいテニスの聖地となった。さらに1987(昭62)年には、ここに1万人収容の有明コロシアムが建設され、その4年後の1991(平3)年にはメルボルンに次いで世界2番目の開閉式屋根が完成した。同年10月には東京・久我山の朝日生命スポーツセンターの協力を得て、念願のJTAナショナル・トレーニングセンターが開設され、選手強化への基地としてスタートした。

この間、協会の法人化当時から15年余り、日本テニス界の改革と発展のために先頭に立ってきた小坂徳三郎会長が、1995(平7)年6月の理事会・評議員会で任期満了して退任。代わって中牟田喜一郎副会長が第10代会長に就任した。多くの課題や困難をかかえながらも、中牟田新会長の下、日本テニス協会は21世紀へ向かって新たな展望を開こうと試みたが、折からの不景気とトップ選手の引退で、協会は財政難の窮地に陥った。中牟田会長は、1999(平11)年に任期半ばで辞意を固め、第11代盛田正明会長が誕生した。21世紀の協会は、盛田新会長の下、新しい時代への活動を展開している。

また90周年を迎えた全国高校体育連盟テニス部、35年を数える女子テニス連盟、13年目を迎える日本テニス事業協会などによるジュニアテニス、女子テニス、テニスクラブの普及と向上は、国内はもちろんのこと国際的にも例のない目覚ましい活動として、日本テニス界への大きな支えとなっている。

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女子選手の躍進

戦後日本テニス界発展史の中でのハイライトとして、女子選手の躍進は欠かすことができない。1952(昭27)年、戦後初の女子海外遠征で加茂(現姓徳島)幸子が全米に出場。ダブルスでベスト8に進出した。また同年、全日本選手権シングルスで初優勝した宮城黎子は、1963(昭38)年には8連覇を含む10回優勝の偉業を達成した。1954(昭29)年に、加茂は日本女子選手として初めてウィンブルドン出場も果たした。

オープン化の初期には沢松(現姓吉田)和子が1967(昭42)年に16歳で全日本室内、全日本選手権に優勝。国内では1974(昭49)年ジャパンオープン準決勝で、元世界1位のブエノ(ブラジル)に敗れるまで、ジュニア時代から9年間192連勝の記録を作った。ジュニアでは、1967年のオレンジボウル、1969(昭44)年の全仏、ウィンブルドンを制覇し、1974年にプロに転向(戦後女子第1号)してからは世界を転戦した。1975(昭50)年には日系選手のキヨムラ(米国)と組んで、ウィンブルドン女子ダブルス優勝の金字塔を打ち立てた。これは、日本女子初の4大大会制覇の快挙である。また、同年は全豪、全仏、全米のシングルスでベスト8に進出し、ランス・ティンゲイ(Lance Tingay)記者制定の世界ランキングで8位になった。 以降、佐藤直子、井上悦子、伊達公子、沢松奈生子らが日本を代表するツアープロとして、世界で上位に躍進。その伝統は現在の杉山愛、浅越しのぶにまで受け継がれている。

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日本テニス史に輝く活躍

最近における日本男女選手の活躍は、80年以上の日本テニス史の中でも特筆すべき輝かしいものといえよう。

1994(平6)年に伊達が全豪でベスト4に進出。同年、世界5位となる。翌年には日本女子選手として全仏史上初のベスト4、ウィンブルドン史上初のベスト8に進み、最終世界ランキングは4位となった。そして1996(平8)年のフェド杯では、世界1位のグラフをエースとするドイツと対戦し、手に汗握る死闘の末、見事な勝利を手中にした。続いてウィンブルドンでは、同じくグラフを相手に2日間にわたる準決勝戦を戦い、、センターコートの観客はもちろんのこと、テレビを通して世界に「DATE」の名をとどろかせた。1995(平7)年末最終ランクの世界4位は、日本女子選手として最高の記録である。この年,男子では松岡修造が、日本男子選手として62年ぶりにウィンブルドンのベスト8入りを果たす活躍を見せた。

1997(平9)年には、平木理化がブパシ(インド)と組んで全仏混合ダブルスで優勝。1999(平11)には、杉山が同じくブパシと組んで、全米混合ダブルスで優勝した。杉山のダブルスにおける快挙は、2000(平12)年にアラール・デキュジス(フランス)と組んで全米優勝、2003(平15)年にはクライシュテルス(ベルギー)とのペアで、全仏、ウィンブルドンを制覇した。2000年10月には、日本人選手として初めてダブルス世界1位に輝いた。また、杉山は、シングルスでも2003年に伊達以来日本選手2人目となるシングルス世界トップ10入り(10位)を果たし、日本選手初の単複同じトップ10入りの快挙を達成。2004(平16)年2月には、日本女子で伊達に続く自己最高の世界8位となった。その後も杉山は、4大大会のダブルスで上位に顔を見せる常連となっている。2008(平20)年2月には、錦織圭がデルレービーチ国際で日本人男子史上2人目のツアー優勝を遂げた。錦織は全米でも日本人男子71年ぶりのベスト16に進んだ。

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復帰と引退

1996(平8)年11月のWTAツアー最終戦チェース選手権を最後に引退した伊達が、2008(平20)年4月に「新たな挑戦」として現役復帰を宣言。2001(平13)年にカーレーサーのミハエル・クルム(ドイツ)と結婚したため、クルム伊達公子として、2008年5月のカンガルーカップ(ITFサーキット)で約11年ぶりにシングルスに復帰した。予選から主催者推薦枠(ワイルドカード)で出場し、本戦決勝まで進出した。2009(平21)年には本格的に世界ツアー復帰も果たした。

2009年には男女の主要選手の引退が相次いだ。4大大会ダブルス3回の優勝を誇り、シングルス世界8位、ダブルス世界1位を記録した杉山は、9月の東レ・パンパシフィックを最後に約17年間の現役プロ人生に幕を下ろした。4大大会シングルス本戦連続出場62回の世界記録は、当分、破られることがない金字塔だ。フェド杯で単複合計18勝5敗と無類の強さを発揮し、シングルス世界41位になった森上亜希子も、11月の全日本選手権で現役生活に別れを告げた。男子では、2004(平16)年デ杯アジア・オセアニアゾーン2回戦で、74年ぶりにインドに勝利する原動力となった本村剛一。鈴木貴男と組んだダブルスで、日本男子ペアとしてATPツアー初優勝を飾り、全日本選手権では鵜原謙造(故人)と並んで単複混合3種目合計10回の最多優勝を誇った岩渕聡。全日本シングルスで1990(平2)年から2008年まで19年連続で本戦に出場した茶圓 鉄也らが引退した。

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